前の記事より、ひきつづき市の堀用水を巡ります。
市の堀用水と草川用水の分水工
松川放水工から再び分水した市の堀用水は、徐々に川幅を広げ、塩谷町押上にある草川用水との分水工へ向かいます。
これが分水工。
場所は、連載「その3」で紹介した「市の堀旧取入口跡記念碑」の近く、南に200メートルぐらいのところにあります。
近くに行くと、ザザーッという勢いのある水の音が聞こえてきます。
動画はこちら↓
田植えの時期なので、水量も多いです。
向かって左が「草川用水」、右が「市の堀用水」です。
割合はきっちり1:1という感じでしょうか。
流れが分けられた2つの用水路。
カーブしてしばらく併走したら、2つに分かれて行きます。
左の草川用水は氏家市街方面へ、
右の市の堀用水はさくら市から高根沢町へと流れていきます。
草川用水の流れを巡る
市の堀用水はこの後も長々(?)と巡るとして、ここでお別れしていく草川用水のことについても、ちょっと調べてみました。
さくら市内(旧氏家町)を流れる草川用水。市街に入ると、川幅も広くなります。
橋の表示は「草川」になっています。
現在は、市の堀用水と同じ「鬼怒川中部土地改良区連合」に属しており、塩谷町佐貫地内にある佐貫頭首工から鬼怒川から取り入れられている用水路です。
導水幹線が完成する昭和41(1966)年までは、取入口が押上地先にありました。
草川用水もまた、水路が開削されたのは、市の堀用水と同じ江戸時代の頃といわれているそうです。
昔の話は、「高根沢町史」にけっこう詳しく載っていました。
草川用水は『栃木県土地改良史』によれば「今から三百年前、上流大宮村地内から流出せる松川が(中略)原野草地の凹地を通って流下したものを水田に導き灌漑」していたので草川と呼んだという。
(デジタルアーカイブシステム ADEAC(アデアック)「高根沢町史 通史編Ⅱ」第二章 宝積寺駅の開業と地主制の成立 第六節 農会の成立と農業生産の展開 四 用水の整備と水車より引用)
草川用水は、もともと上流の松川を水源としており、草原の窪地を自然流下し、水田にかんがいしていたため、「草川」と呼ばれるようになったそうです。
また、こんな記載もありました。
草川用水と新堀
草川用水は古くからの用水だったので、市の堀との間に大正五年に前述の水量についての協定をしていた。それは草川の水源である松川の水が市の堀に流入しているので、これを大杉塚から水神川へ流し草川へ補給するという、草川の水利権を守る協定だった。草川は川原新田(富野岡)で鬼怒川からも取水していた。市の堀が上流で大量の取水をすれば水不足になってしまうので、さらに下流で取水する釜ケ淵用水も含めた三用水は江戸時代には一つの水組を作って慣例によって分水していたと思われる。明治初年には草川下流の権現淵付近に何軒かの回漕問屋が営業し、荷駄を扱い、沿岸には人家も立ち並び、水車も営業していたという(『氏家町史』下巻・一八四頁)。また、宇都宮の材木商が筏を流すために草川を利用したこともあった。
(デジタルアーカイブシステム ADEAC(アデアック)「高根沢町史 通史編Ⅱ」第二章 宝積寺駅の開業と地主制の成立 第六節 農会の成立と農業生産の展開 四 用水の整備と水車より引用)
「松川」が大久保村(現・塩谷町)を過ぎ、押上(現・さくら市)に入ってからは、「水神川」とも呼ばれていたようです。
さくら市押上には、「水神社」という神社がありました。
場所は県道62号今市氏家線沿い、神社の裏手には市の堀用水が流れています。
創建は江戸時代。本来はもっと鬼怒川沿いにあったようですが、洪水で遷宮・再建した歴史があるようです。
境内右側にある琴平神社内には、立派なお神輿が祀られていました。
上部には水神を表現した翼を持つ飛龍、四方には龍、台座には流水模様が施されています。
江戸中期に、全国的に盛んだったという金比羅信仰。
金比羅とは古代インドの水神「クンピーラ」のことらしい。
このお神輿は、幕末にあった洪水や、コレラなどの災難除けを願い、創られたものだそう。(祀られている神輿は、昭和57年に大修理をされています)
この地域もまた、水不足や鬼怒川の氾濫・洪水に昔から悩まされていたんですね。
明治35年 鬼怒川の大洪水・堤防決壊(足尾台風)
草川用水とは市の堀用水との間には、大正5年に水量についての協定を結んでいたようですが、明治35(1902)年、決定的となる災害が起こりました。
この年、暴風雨により鬼怒川は氾濫、洪水が発生し、市の堀用水や草川用水など、鬼怒川から取り入れしていた各用水の取入堰が決壊しました。
この大損害を受け、各組合の代表者たちが決起し、「鬼怒川からの堰を統合しよう」と計画され、現在の佐貫頭首工の建設までに至りました。
詳しい歴史は「市の堀用水を巡る〜その3」参照のこと。
さくら市向河原地内にある鬼怒川河川敷には、当時の堤防決壊・竣工記念碑と案内板が建っています。
この時の災害は、鬼怒川上流の日光地方を襲ったため、「足尾台風」洪水と名付けられているそうです。大水はたちまち堤防を決壊して田畑を押し流し、一帯を泥沼を化してしまいました。当然、その年の稲の収穫はゼロ。その後も洪水は年中行事のように続き、決壊が多発したようです。
また、度重なる鬼怒川の大水の影響で、東北線鉄道のルートも変更になりました。
宇都宮駅ー古田駅(現・宇都宮市)ー長久保駅(現・さくら市氏家)ー矢板駅
だったルートは、明治30年に廃止されました。
参照:「ひばらさんの栃木探訪」第417回 旧東北本線廃線探訪 の巻
(つづく)
○市の堀用水・草川用水分水工
栃木県塩谷郡塩谷町大久保
○水神社
栃木県さくら市押上528
○明治35年堤防決壊・竣工記念碑
栃木県さくら市向河原地内
【「その7」編集後記はこちら↓】