市の堀用水を巡る

連載「市の堀用水を巡る」その3〜市の堀用水ができた後〜

市の堀用水を巡る〜その3〜
市の堀用水を巡る〜その2〜
連載「市の堀用水を巡る」その2〜市の堀用水ができるまで〜市の堀用水を巡る前に、まずは市の堀用水の歴史を学んでみます。 「市の堀〜市の堀用水沿革史」(昭和53年発行・石山憲三編)や、高根沢...

前の記事よりつづき

完成後もいろいろ問題続きだった市の堀用水

市の堀用水のおかげで、近くの村の水田には水が行きわたるようになりました。

が、

これで「めでたし、めでたし」とはいかなかったのが、市の堀用水の歴史。

ここからがまた苦難の連続だったようで、「市の堀〜市の堀用水沿革史」を読む限り、山崎半蔵が用水を完成させるまでのページ数より、これから以後のページ数のほうが、ボリューム多めで書かれているほど、いろいろな “いざこざ” が起こっています。

・・・^^;

市の堀用水を使用する村々は「水組合」を結成して、用水の管理・修繕に努めていたものの、干ばつで下流まで水が来ない年があったり、鬼怒川が大水害で、市の堀用水の取入口が決壊したりで、数々の水争いが勃発しました。

市の堀物騒な見出しが並ぶ「市の堀用水沿革史」

 

特に、修繕の費用や人足負担をめぐって幾多の紛争が発生したようで、脱退や造反する村が出てきたり、村と村どうしで裁判沙汰になったり・・その歴史を読み進めると、なかなかに問題続きの用水路だったようで、その運営は困難を極めていったようです。

江戸時代も18世紀後半になると、氏家地区の阿久津川岸(かし)が発達しました。
「阿久津川岸」は、氏家宿に各街道を通って集まったお米や木材などが集結し、江戸と奥州を結ぶ文物交流の拠点となりました。

ここの改修や護岸工事が着工された影響で、鬼怒川水流にも変化があり、市の堀用水への流水が減り、近くを流れる氏家地区の草川用水や阿久津用水とも水争いになったようです。

水不足で、「番水」になった年もありました。
「番水」とは、節水のための配水管理のことで、村ごとに時間を決めて、昼はA地区、夜はB地区・・というように、順番にしたがって配水する仕組みです。

江戸中期から幕末になると、市の堀用水を流れる地域は、代官が支配する幕府領と3領主(宇都宮藩領・佐倉領・一ツ橋領)に分かれていました。4者の異なった支配者によって、思い思いの主張があり、紛争も起きていたようです。

維新の動乱が明けて、時代は江戸時代から明治時代へ。
迎えた明治2(1872)年には、鬼怒川は大洪水になり、市の堀用水の取入口堰は大破します。この頃から、市の堀の運営も行き詰まっていくことに・・。

2年後の明治4年には、廃藩置県により、町村制が施行され、「水利組合」に関する条例が公布されたことで、ようやく用水運営も平和的な保全がなされるようになってきました。

開削当初に、問題なっていた宇都宮領と喜連川領(文挟村・伏久村)の領地問題(※参照:「その2〜市の堀用水ができるまで〜」)も、開削から200年以上経ったこの頃に、ようやく和解します。

が、またもや事件が勃発してしまいます。

おそらくこれが市の堀用水最大の事件です。

 

市の堀用水の水が止まる事件が勃発!

明治維新によってなくなりかけた争いでしたが、富国強兵を政策として進めていた新政府は、明治6(1873)年に地租改正を断行し、農民の負担も増えていき、用水の使用にもしわよせがくるようになってきました。

明治14(1881)年、その夏は日照りつづきで、干魃しかねない状況でした。

水不足になった市の堀用水を堀ざらいをして水量を増そうと、水組合は緊急工事を始めますが、ここで、当時取入口のあった大久保村地内と対立してしまいます。

開削当初は、市の堀用水をあまり重要としていなかった大久保村も、明治維新以降になると開田が進み、水不足は取入口付近の村ですら深刻な状況になっていたのです。

交渉が行き詰った、9月1日、突如として市の堀用水の流れが止まってしまいました。

驚いた下流の村役人たちが堰元を見に行くと、大きな木枠が打ち付けられ、石をつめた蛇籠が沈め重ねられて、取入口を完全閉塞されてしまっていたそうです。

さらに追い打ちをかけるような事態が起こります。
暴風雨により鬼怒川が氾濫、これにより洪水が起き、市の堀取入口は大破してしまいました。

このことで、取入口の村と水組合の対立がさらに激化、翌年には宇都宮治安栽培所、さらに翌年は東京の控訴栽培所までもつれ込む裁判沙汰となってしまいました。

一進一退を繰り返し、毎年稲作の時期には険悪なムードに・・。泥沼化した対立はそれから数十年も続いたそうです。

この問題を一件落着させたのは、国でも裁判所でもなく、なんと大宮村警察駐在所の鈴木巡査でした。

巡査は、勤務のかたわら、日夜両者の意見を聞き入れ、代表者たちと話し合いを続けました。お互いに妥協案を打ち出し、ようやく双方の和解が成立したのは、明治33(1900)年のことでした。

市の堀用水の案内板さくら市狹間田・八溝グリーンライン沿いにある案内板。最後は「この大規模な用水は、大規模ゆえに、水権利や運営を巡って、300年の間、論争を繰り返し続けた用水でもあった。」と締めくくられている。

 

新たな大用水堀計画が立ち上がる

村同士のいざこざ問題がおよそ20年続いた市の堀用水・・。

明治から大正時代にかけての市の堀組合は、年々の大水害や取入口の修理費、末流の水不足など、依然として改善されない問題を抱えたままでした。

ここで思い切った大改修が必然となったのです。

これまでより、より用水量が確保され、最末流地域まで農業用水を利用できる計画として、大正元(1912)年から2年間、政府の指令によって大規模な「鬼怒川水利調査」が行われました。

その後決定したのが、取入口の変向と樋門新設、護岸工事などの防災対策の徹底、用水分配箇所の整理改修、そして芳賀地区への水路延長でした。

市の堀用水流域の町や村、それをとりまく地域が次々に契約や協定を締結し、大正12(1923)年には市の堀の取入口にコンクリート造の新しい樋門が完成します。

当時としては県内唯一の固定樋門で、大正・昭和にかけて、数々の洪水や台風によく耐え、地域の田畑や住民から水害を守りました。

市の堀旧取入口跡の記念碑市の堀旧取入口跡の記念碑(塩谷町大久保)

塩谷町大久保地内の鬼怒川沿いには、「市の堀旧取入口跡」の記念碑がひっそりと設置されています。

昭和時代に入ると、

・昭和22(1947)年 キャスリーン台風により取入堰流失
・昭和23(1948)年 アイオン台風により取入堰流失
・昭和24(1949)年 キティ台風により取入堰のほぼ全部の流失、導水路の一部埋没
・昭和25(1950)年 台風により取入堰流失、導水路の埋没で取水不能
・昭和28(1953)年 台風13号により取入堰が決壊
・昭和29(1954)年 台風14号により取入堰および親堰が決壊
・昭和30(1955)年 台風15号により取入堰の一部流出

・・

と、次々と大型の台風や自然災害が襲い、取入堰は何度も流失、復旧工事が繰り返されたようです。

市の堀用水の水組合をはじめ、同じ鬼怒川から取水していた草川用水(氏家)・逆木・根川用水(上河内)の各用水組合の代表者たちは決起し、「鬼怒川からの堰を統合し、逆木付近に永久的な堰堤を造ろう」と、計画を立てることになるのです。

かくして、その計画は国の事業として行われることになり、「鬼怒川国営用水事業計画」が立ち上がりました。

国営事業は、昭和32(1957)年に着工し、塩谷町佐貫地内に建設された佐貫頭首工と9ヶ所の用水堰を結ぶ導水路が建設され、昭和41(1966)年に完成しました。

それに伴い、ここにあった取入口樋門は役目を終え、昭和42(1967)年の1月、地域住民が見守る中、姿を消しました。

市の堀旧取入口跡の記念碑

記念碑はその翌年、明治百年記念事業としてここに設置されたそうです。

スポット情報

○市の堀旧取入口跡
栃木県塩谷郡塩谷町大久保

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「たかマガ」管理人。 栃木県高根沢町でグラフィックデザイナーをしています。栃木探訪をしているブログもやってます。趣味はB級スポット巡り、ゆるキャラ、コーヒー、ブログ、ラジオを聞くこと。2人の女児がおります。
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