市の堀用水を巡る

連載「市の堀用水を巡る」その2〜市の堀用水ができるまで〜

市の堀用水を巡る〜その2〜

市の堀用水を巡る前に、まずは市の堀用水の歴史を学んでみます。

「市の堀〜市の堀用水沿革史」(昭和53年発行・石山憲三編)や、高根沢町の小学生が授業で使用する社会科副読本 「わたしたちの高根沢町と栃木県」により、ざっくりと市の堀用水の概略をまとめてみました。

市の堀

ことの起こりは江戸時代。発案理由は高根沢地内の水不足から

時代は、今から350年ぐらい前の江戸時代にさかのぼります。

高根沢地内の桑久保村(今の桑窪)や上柏崎村・亀梨村(今の台新田)、土室村(今の飯室)辺りでは、古来より井沼川という、小さな水源の細流で農耕を維持してきました。

しかし、この辺りでは渇水なども起きていた地域で、藩の増収政策に追従するためにも、農業用水の不足が避けきれず、考えた手段が「水量豊かな鬼怒川を給源とした、用水堀の開発」でした。

そこでこの辺りの村を治めていた宇都宮藩主・奥平忠昌(おくだいらただまさ)が、宇都宮藩士であり、土室村の地頭だった山崎半蔵(やまざきはんぞう)らに、ここに用水をつくることを命令しました。

実地調査を実施した結果、桑久保村より喜連川丘陵に沿って遡り、狹間田村を通過し、上野原大地を貫き、西北に向かって押上村を目指し、鬼怒川に達する延長約5里(20km)ほどの大用水堀を計画しました。

着工がはじまるも、苦難つづきの大工事

発案者の3村(桑久保村・柏崎村・土室村)は、取入口の押上村をはじめ、周辺の各村々に理解と協力を得て、藩庁に用水堀新設願いを提出し、藩からも許可が下り、正保3(1646)年に着工がスタートしたのでした。

が、ここまでたどり着くまでにも、幾多の困難があったようです。

最初に立ちはだかった問題としては、水路の通過問題でした。

土室村の北に位置する文挟村と伏久村は、喜連川藩領だったので、その2村を通過するのに、宇都宮藩領だった高根沢地内の3村は、喜連川藩の協力を得なければいけなかったそうです(いまは文挟も伏久も高根沢町地内ですが・・)。

当初、喜連川藩は用水通過拒否の態度を通告してきましたが、宇都宮藩の交渉により、いくつかの条件を出されてそうです。

喜連川領通過の条件

宇都宮藩としては、何としてもこの事業を成功させねばならない。発案者の奥平織部・山崎半蔵を中心に、奥平家重臣の奥平図書、郡奉行奥平忠左衛門・斎藤又左衛門らが総力を結集し、領内農民を動員して用水路開削と、その完成の決意をみなぎらせていた。その間、宇都宮藩の重臣らは、用水堀の重要性を説き、堅い決意をもって喜連川藩との交渉に当たっていた。喜連川藩もその熱意を汲み取り、両藩の役人立会いのもとで、用水路通過の条件を提示し、和解するに至った。この時決められた条件は、次の通りである。

一、両村(伏久村・文挟村)内を通過する用水堀の工事は、当藩の両村人足で掘削すること。
一、用水堀完成後は、永久に潅漑水利権が確保されること。たとえ水不足の場合でも用水は使い放題であること。
一、両村内の用水堀の維持と運営は、両村の自主管理に委ねる。もし両村内の水路が大普請の必要を生じても、一切他領・他村の援助は受けないこと。
一、両村は、村内を通過する用水堀をこのように自主管理しているので、他領の用水堀運営には全く関知しない。たとえ取入口や水路の大普請がある場合でも、両村は人足及び諸経費など一切差し出さない。

一方的な内容の条件を突き付けられ、宇都宮藩としては不服であったが、条件のすべてを承知して、この難題を解決した。この結果、喜連川領内の伏久村・文挟村を通過する用水堀開削計画が実現可能となったのである。
デジタルアーカイブシステム ADEAC(アデアック)「高根沢町図書館/高根沢町史」
通史編Ⅰ 第四編 近世 第三章 近世村の支配 第三節 市の堀用水 市の堀用水の開削
より引用)

「用水堀の工事は宇都宮藩でやる」、「水不足の場合でも用水は使い放題である」ことなど、一方的な条件を出され、最初は不服だった宇都宮藩ですが、条件のすべてを承諾し、やっとことで和解に至りました。

工事も予想以上の難工事だったようです。

工事は人力で、鍬(くわ)やまんのうで土を掘り、もっこ(土を運ぶための道具)や、土づき・かけや(木のくいなどを打ちつける道具)などを使い、掘り進められました。

鬼怒川に近づくに従って、微高地の落差の取り方に苦労したり、工事負担の割り当ての不公平さなどから、発案者3村に対し、ほかの村から抗議が起きるなどの困難があったそうです。

多くの人々が集まり、栄えることを願って命名された
「市の堀」が苦節10年で完成

市の堀の工事は、藩の予算を使った一大事業でした。

当時、日本各地で治水を伴う事業が行われていたようですが、中には難工事のため遅延したことから、多数の藩士が自害するという事件も起きていたらしく(参照:宝暦治水事件)、まさに “失敗したら切腹もの” という一身を賭けての至難の大事業だったようです。

用水路の提案者であり、推進者だった山崎半蔵は、その開発事業に、寝食も忘れて奔走しました。

そうした努力と苦難を乗り越え、明暦2(1656)年の春、延べ人数十万余人、10年の歳月を経て、延長5里におよぶ下野最大の用水路が完成しました。

用水路には多くの人々が集まり、栄えることを願って「市の堀」と命名されました。

一部の文献には開設当時は「一の堀」と記載されているものあったようですが、後に「市の堀」となったそうです。

とうとうと流れ行く水に、喜び合う農民たちと、感慨無量の山崎半蔵・・ですが、その安堵感に精根尽き果て、半年後、市の堀用水が完成した年に急逝してしまったそうです。

市の堀用水は山崎親子2代で尽力した?

山崎半蔵の墓
土室村の人たちは、市の堀の近くに山崎半蔵の墓を建てました。

現在は、高根沢町飯室地内にある高台の共同墓地にうつされています。

山崎半蔵の墓
墓石の横には「市ノ堀開鑿奉行 宇都宮藩士 山崎半蔵勝長」と彫ってあります。

山崎半蔵
高根沢町亀梨にある量山寺には、「市の堀開削三百年供養塔」があります。
こちらは昭和31(1956)年に建立されました。位牌もこのお寺にあるそうです。

が、この山崎半蔵という人、実は、まとまった記録が残されていないため、その人となりなど、不詳な点が多いようです。

ということで、自分なりに探してみたところ、さくら市に残る「氏家町史」には、山崎半蔵に関する資料があるようで、そのことが「高根沢町史」にも載っていました。

 元和八年(一六二二)、十一万石の宇都宮城主となった奥平美作守忠昌は、城下町の改修と整備にとりかかるとともに新田開発を実施した。この政策を指導した中心人物が、山崎左近である。同人は、「宇都宮城下町の整備・改修と市場を新設して商業経済都市化を図る一方、新田の開発を促進して財政備蓄に手腕を発揮し、家老職でも首位を占め」(『氏家町史 上巻』三三九頁)て、奥平家の最盛期を築きあげた人物だが、実子がいなかったため、同族から養子を迎え、知行地を分割継承させて分家としたという。その山崎家の分家の一人が、「市之堀用水」開削の指導者とされる山崎半蔵勝長である。同人は、土室村(飯室)を知行地としており、率先して同所の新田開発に努めるに至った。
デジタルアーカイブシステム ADEAC(アデアック)「高根沢町図書館/高根沢町史」
通史編Ⅰ 第四編 近世 第三章 近世村の支配 第三節 市の堀用水 市の堀用水の開削
より引用)

※知行地(ちぎょうち)・・江戸時代に大名が、家臣に一定に与えた領地のこと。

これを読むと、奥平忠昌が新田開発と用水整備を指示したのは「山崎左近」という人物。

この山崎左近という人は、宇都宮藩・奥平家の家老で、宇都宮城下町の整備・回収や市場の新設なども行ったらしい( “家老職でも首位を占め” と書いてあるから、おそらく家老の中でも一番仕事が出来た人?)。

調べて見ると、山崎左近は現在でも毎年行われている宇都宮市の「初市(だるま市)」を上河原で開催するよう指図した人物らしいです。

そして、山崎左近は実子がいなかったため、同族から養子を迎え、その山崎家の分家の一人が、山崎半蔵ということでした。

つまり、市の堀用水はこの山崎左近と半蔵が、親子2代に渡り尽力したことにより、完成した用水なのだということが、今回調べて分かった新発見(あくまで私の推測ですが・・)。

ちなみに山崎左近という人物のはお墓は、宇都宮市の興禅寺にお墓があるそうです。

(つづく)

スポット情報

○山崎半蔵の墓
栃木県塩谷郡高根沢町飯室
○量山寺(山崎半蔵 市の堀開削三百年記念供養碑)
栃木県塩谷郡高根沢町亀梨534

管理人
ひばらさん
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「たかマガ」管理人。 栃木県高根沢町でグラフィックデザイナーをしています。栃木探訪をしているブログもやってます。趣味はB級スポット巡り、ゆるキャラ、コーヒー、ブログ、ラジオを聞くこと。2人の女児がおります。
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