ひきつづき、たかねざわ史跡巡り〜お城編。
(1)桑窪城跡はこちら↓
2つ目は、宝積寺にある「阿久津城跡」です。
実は「石末」の由来かも? 「礎の地」にあった阿久津城
場所は高根沢町石末、高根沢町役場の北側にあります。
坂を上がっていく道のふもと、ガードレールの横に
「史跡 阿久津城跡」という石碑がひっそりと・・。
こちらには石碑のみで、詳しい案内板などはありません。
なので資料によりますと、
阿久津城は貞和四年(一三四八)に宇都宮氏の家臣野沢若狭守により築かれたと伝わるが、史実かどうかは明らかではない。この一帯は「たつかいどう」・鎌倉街道などの古道が通過する交通上の要地であった。また、戦国時代には宇都宮氏と那須氏の両勢力の接点であったため、たびたび戦場となったことが確認できる。
高根沢町図書館デジタルアーカイブシステムADEAC「高根沢町史 通史編Ⅰ」より
とのこと。
この一帯は、古道が通過する交通上の要地で、
戦国時代に宇都宮氏と那須氏の両勢力がたびたび戦場になった場所なんですね。
現在でも近くに宇都宮線、烏山線の発着する宝積寺駅があるので、
今も昔もこの地が“交通上の要地”になっていることに縁を感じます。
「高根沢町史」には、さらにこんなことについても書かれていました。
弘治元(1555)年に、真岡の武将・芳賀高定が平野大膳亮という人物に送った感状、
その文面に「礎の地」という場所が出てくるんですが、
のちの史料には「石居(いしずえ)の地に在城致し」という一節も出てくるので、
「礎の地」=「石居の地」、さらにそこには城があったということから、
「礎の地」が現在の「阿久津城」の場所だろうとされているそうです。
この考察は「高根沢町史 通史編Ⅰ 第三編 中世 第四章 戦国時代 第一節 石末城の攻防 三「礎の地」の激闘」に詳しく書かれていますので、リンク先を参照のこと。
で、これは私のあくまで仮説ですが、
現在の地名「石末」は、「礎の地」が由来なのかな?と。
中世の頃には「石礎」と記すこともあった(→参照)そうなので、
変遷は分かりませんが、
礎の地→(石礎?)→石居→石末
つまりは阿久津城に由来しているのかもしれませんね。
阿久津城の現状はいかに・・
石碑のある場所から北側には、一応、道っぽいものがありますが、
ここが本当に城跡? と思うほど、手入れがまったく・・という感じでした。^^;
さらに奥に続く道があるのはあるんですが、ぱっと見は雑木林。
草木がうっそうとしているので、これ以上進むのは断念しました。
それもそのはず、さきほどの資料「高根沢町史」によると
現在、大規模な堀の一部や土塁の一部が残っているものの、東北本線や宅地造成などのために遺構の破壊・改変がはなはだしい。
遺構の破壊・改変が甚だしい・・^^;
この地図を見ても分かりますが、
JR宇都宮線(東北本線)が、遺構の真ん中を貫通してしまっているのです^^;
森の散策はあきらめ、石碑のとなりにある鳥居の上に行ってみました。
なかなかこちらも歴史ある感じです。
上には木造の本殿がありました。
こちらは「八幡宮」。石末宿・笹原・向原の鎮守だそうです。
狛犬の赤ちゃん(?)が玉をくわえていて、ちょっとかわいい。
さきほどの資料「高根沢町史」によると、こんな文献がありました。
八幡宮(石末)
(略)・・貞和四年(一三四八)に野沢若狭守が阿久津城を築いた時に、守護神として三の丸の南方に八幡宮を、北方に浅間神社を祭ったといわれる。この地は石居といわれ、石居城ともいった。
つまり、この場所が阿久津城の守護神が祭られていた「三の丸」跡。
阿久津城に縁ある場所ということでしょう。
史料によると、中世の頃は「石居(石末)城」と呼ばれており、
「阿久津城」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降みたいです。
本殿の後ろには、森につづく道がありました。
奥に進んでみると・・
森を抜けて出てきたのは住宅街、そしてその奥に線路がありました。
ちょうど、史跡を“貫通”しているあのJR宇都宮線(東北本線)です^^;
いうことは、この辺も城跡なんでしょうか。
まさか電車が城跡の中を通過しているとは・・
乗車している方も城跡だとは全然気づかないでしょうね^^;
ちなみに宝積寺駅が開業したのは明治時代の話。
もしかしたら、明治時代以前には、
今よりまだ城跡がもっと状態良く残っていたのかもしれません。
○阿久津城跡
栃木県塩谷郡高根沢町石末